少人数セミナーレポート


国際プロジェクトコース 2年
240672E 坪田隆宏


 
 まず初めに、日本は実は多神教国家ではない、と思う。

ローマの混迷
 一神教であることのデメリットは、やはり他の価値観を受け入れがたい、ということだろう。資本主義や社会主義といったものも一神教と同じだ。王制、民主制、共和制、帝政…etcと、ローマの時代にも様々な政治体制が登場したが、それらも一種の宗教ではないか?盲従すると周りが見えなくなる→他の選択肢が見えなくなる。カエサルっぽくいうなら「見えていても見えなくなる」。
 共和制の中頃…自分の認識ではカルタゴを破った辺りまではローマはあらゆる意味で多神教だったと思う。敗者も積極的に受け入れて同化し、彼らの得意分野をそのままの形で国づくりに活かしていった。価値観に対して先入観がないから、良いものは素直に受け入れるし、他国で成功していることでも欠点を見抜けば絶対に採用しない。これがローマの強みだったように思う。こうして失敗はしながらも全体としては成長を続け、結果的に共和制を万能の体制として見るようになってしまった。共和制を信仰してしまったのだろう。言い換えるなら、国を治める手段であったはず共和政自体が目的になってしまったのだ。そしてローマは混迷の時代に入った。

日本の混迷
 
日本に目を向けてみるとどうだろうか。日本も明治維新後、海外の技術、制度等を積極的に学び、良いところは日本に合うようにリメイクして確実に吸収していき発展していった。戦後も国を復興させ、更なる発展のために邁進していき、目覚しい経済発展を遂げたが、今は誰がどう見てもパッとしない。言うまでもなく、ローマと同じく調子の良かった時代の体制をなかなか改められないからだろう。

 ところで自分が初めに言った「日本は多神教ではない」つまり「日本は一神教だ」というのはローマのように体制に固執してしまっている状態だけでなく、実際に日本人特有の宗教があるということだ。確かに表面上は宗教的に何でもありとするのが日本の大勢だが、日本には「日本教」とでも呼ぶべきものが必ずある。その存在のもっとも顕著に表れた例が「日本人と外国人」といった見方だと思う。
 日本人の多くは確実に「日本人なら分かるだろう」や「外人だから仕方がない」といった認識を持っている。これは和敬塾という寮で生活していて強く感じた。日本人の寮生には当然のこととされていることでも、留学生には中々受け入れられないことが多い。その際、自分を含めて殆どの日本人寮生の認識は、「日本人」対「外国人」だったのだ。留学生はアメリカ人もいれば中国人、インド人、ドイツ人もいる。しかし誰も個別には見ずに「外国人」で括る。まるで「日本人」だけが特別な存在であるかのように。

今後の日本に必要なこととは?
 
さて、本題に戻ると、混迷期のローマは一人の天才によって新体制を打ち立てることで永きに渡って繁栄した。日本も何か大きな改革が必要だろう。そして誰もがそれを認識しているはずである。小泉首相があれだけ言っていれば改革が必要なのは分かる。
 ローマにあって日本に足りないものは、有能な人材の活躍できる場だろう。足の引張り合い。これも「日本教」の教義の一つにあるような気がする(ここまで書いてきて「日本教」が蛇足だったことに気づいたので忘れます)。有能な人材と言うより、自分とは違う考えを持った者に対するアレルギーと言った方がいいのかも知れない。元老院はカエサルを嫌いはしたが、カエサルを活躍はさせた。
 年金制度についてのニュースを見ていると、国の打ち出した政策は素人目にも(素人目だからかもしれないが)無理のある内容だ。それに対して学者が批判する。批判内容は正当だが具体的でない。批判だけに留まってしまっている。ただ、国の政策にはその批判に答える気はあるのか?と言いたくなるような頑固さが見られる。一つ思ったのは、この年金制度の危機はローマの混迷の縮図ではないか、ということだ。まずはここで日本の力量が問われるのだろう。明らかに昔とは違う人口構成のもとでの従来どおりの年金制度。それによって当然のごとく生じる歪み。今の日本にできる事とできない事とを正確に捉え、また不測の事態にも対応できるような対処が求められている。今こそ広く意見を取り入れて、柔軟に、目的を正確に見据えた対応が求められるのではないか。具体性のない批判でも真摯に受け止め、問題点を見直す姿勢は持たなくてはいけない。

結びにかえて
 理想の宗教は多神教だと思う。自分の都合でどんな神も祭ることができ、他の宗教も受け入れやすく、それゆえに自分の殻にこもる事がない。常に新しい見方ができる。これは宗教に限ったことではなくて、何事においても一つのことにこだわる事は確かに安定はするが発展は望めない。新しい風がないからだ。結果、荒廃していく。自分はどちらかと言うと「自分教」信者だと思う。自分も「多神教」になりたい。日本にも再び「多神教」になってほしい。

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