少人数セミナーレポート



20021 佐藤岳文


カエサルについて
 まず、帝政にすることでローマが良くなるという根拠が僕には見えませんでした。帝政で難しいのは、皇帝の持つ絶対的な権力を正当化することだと思われます。世襲制ならば、その一族が特別な才能を受け継いでいると民衆に信じ込ませる、宗教的な暗示が必要です。世襲でなくても、カエサルのような天才を継続的に生み出す教育と、国民の中からもっとも優秀な人間を選び出す制度が必要です。そして何より大変なのは、帝政は失敗が許されないことです。施政の責任は皇帝にあり、失敗や方針の転換は、民衆が皇帝の能力に疑問を抱く原因となります。
 帝政の利点は効率性だと思うのですが、当時のローマに効率性が必要だったのか、それほど切羽詰った事態に置かれていたのか、非常に疑わしいです。むしろ効率性ではなく、時間はかかってもより良い政策を模索する体制にすべきだったのではないかと思います。
 カエサルの最終目標は元老院体制を倒すことでしかなかったのではないでしょうか。元老院体制がもはや駄目になっていたのは同感ですが、それに反対だからというだけで正しいとは言えません。
 「悪の敵=善」という二元論では、本当に正しい道を見失うことになりかねません。長野県議会が、田中康夫知事への不信任を決議しながらも後の選挙で再選を許してしまったのは、田中知事の方針に反対するだけで、それに代わる独自の方針を明確に打ち出せなかったからではないかと思われます。
 僕はカエサルが元老院に勝った後、県議会と同じことになるのではないかと思いながら読んでいました。どうやら勝った後も精力的に改革を進めていたようで、その点は県議会と違いますが、帝政という答えは、真にローマの今後を考えた結果とは思えません。カエサルは元老院を倒したあとのことは考えていなかったと思います。
 僕は、マネジメントはアンチ・ヒロイズムだと思っています。ヒーローは、善くも悪くも凡人の努力や企みを無にするような存在であり、カエサルのようなスーパーヒーローの登場を期待するなら、マネジメントをこつこつ考える意味は無いのです。あまのじゃくな僕は、ヒーローは冷めた目で見るに限ると考えています。
 したがって、上で述べたようなカエサル批判は、このようなやっかみからの単なるあら探しに過ぎません。彼が非常に優れた人物であることには全く疑いようがありません。

国家について
 
当時は戦争が日常的に行われており、ローマは戦争のたびに国内の対立をうっちゃって、一丸となって戦争に取り組んでいました。そこで感じたのは、戦争はむしろ国をまとめ、国内の平和に貢献するのではないか、という事です。
 卒論で少しかじった組織論では、組織には明確な目標が必要であるといわれています。その目標が明確であればあるほど、各構成員は自分の役割を認識し、組織全体のポテンシャルを発揮できるのです。
 国家にとって、戦争はこれ以上無いほど明確な目標を与えてくれるものです。「ハンニバルに勝つ」という目標のために兵隊は懸命に戦うし、その家族も懸命に支援しました。戦争に勝つことは誰にとっても明快な優先事項だからです。ローマが順調だった時に国内を支配していたのは、危機感だったと思います。周囲の国々からの脅威に度々さらされ、首都を乗っ取られた経験もあり、絶えず怯えていたように思えます。他国を同化するという手法をとったのも、危機感ゆえに短期的な利益に走らなかったことが理由と思われます。危機感は、一人ひとりに目標を与えるものであり、その危機感を保つためには、戦争が何より効果的ではないでしょうか。
 もうひとつ考えされられたのは、奴隷の存在です。国家のように大きな組織では、構成員は、企業の社長・専務・部長・課長のようにヒエラルキーを形成すべきなのです。そして、労働力にはなるが、意見を組織全体の運営に反映させることはしないという構成員が必要だと思われます。全員の意思を汲み取るのは不可能だからです。したがって、奴隷は、その主人だけでなく、国家全体にとっても、組織が効果的に機能する上で有益な存在であると感じました。
 そう考えると、現代人としては国家というシステムに疑問を抱かざるを得ません。技術の発展によって戦争の犠牲があまりに大きくなったことで戦争はむやみにやるわけにはいかなくなっています。また一方で、組織の規模が拡大しているにもかかわらず、民主主義や法の下の平等といった概念によって、組織はヒエラルキーどころか扁平な構造になりつつあり、求心力も弱まっています。本来なら、「国家総動員法」という法律や、教育基本法に「愛国心を育む」ことを盛り込むなどの施策は、国家として当然だと思われます。しかし、それが戦争につながる可能性があったり、個人の自由が制限されたりすることに国民は耐えられなくなっています。
 現在でも戦争は行われており、実質的には奴隷のような人々もいますが、倫理的観点からそのような事態を容認することが出来ないのならば、国家というシステムを根本的に見直す必要があるのではないでしょうか。ローマの時代では、国家はその土地の民衆の生活にとって有効な組織でしたが、現代ではむしろ有害な面ばかり目立っているような印象さえ受けます。そういうわけで、「国益」とか「国境」という概念について、今回のゼミで色々考えさせられました。


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