少人数セミナーレポート

 
30001阿部真理子


 講義を通して考えさせられたことの一つに、民主政が必ずしもよく機能するとは限らないということがある。民主政では、王政等と比べ民衆が政治に直に影響を及ぼす。そして、民衆は得てして自分の言動に責任を持ちにくいものだ。また、場合によっては一人の王より民衆全体の方が堕落しやすい。堕落とは、端的に言えば「どうでもよくなる」ことだと思う。王政において王が堕落したときは、民衆はそれに容易に気づくだろう。しかし民主政において民衆が堕落していくとき、当事者である民衆はそのことに気づきにくい。あるいは、気づいてもどうしようもない。「どうでもよくなっている」のだから。考え判断し自分の責任において行動するのは、きついことである。「どうでもいい」モードの人にとっては、ある意味、奴隷になった方がラクだ。考えなくて良いのだから。
 民主政において民衆が堕落するのは、基本的な生活を一般の人々が「そこまで頑張らなくとも」やっていけるようになったときだと思う。(今の日本がそのような状況だと思う。)そこまで頑張らなくとも暮らしていける状況ではあっても、何らかの社会問題は必ず抱えているはずである。しかしいったん「どうでもいい」モードになると、そこからはなかなか抜け出せない。社会問題の対策は先延ばしされがちになり、とりあえずのその場しのぎのごまかしや切り抜けで政治が動くようになり、その間にだんだん問題は蓄積され肥大し、果てはどうしようもならない程まで事態は悪化する。
 民衆が「どうでもいい」モードになったとき、クーデターが起こしやすくなる。全体的な民衆のモードが「どうでもいい」であっても、中には「どうでもよくない」人々がいるはずだ。この類の人々は大まかに二種類に分けられると思う。
すなわち、民衆の「どうでもいい」モードを憂い危惧し、何とか良い方向に持ちなおそうとする人々と、逆に民衆の「どうでもいい」モードを好機と捉え、クーデターを起こして権力を握ろうとする人々である。
 この状況では、えてして後者の方が有利である。何故なら前者は往々にして民衆を力で押さえつけるのを嫌がり、また扇動するのも嫌がる(何故なら民衆がしっかりするのを望んでいるから)が、後者はむしろ進んでそれを行うだろうから。そして「どうでもいい」モードにある民衆は、さすがに死ぬことだけはどうでもよくないから、前者の説得よりも後者の締め付けの方に従うだろう。
 そして前者は暗殺を行いにくいが、後者は行える。例えばナチスの台頭時、多数の反対派の政治家や記者達が暗殺された。
 日本の現在の状況を、私も含め、多数の民衆は憂いている。しかし、ほとんどの人々は憂いているだけで、実際に何か行動しようとはしていないように思う。要するに怠惰なのだと思う。マスコミは得てして官僚や政治家を責めるが、(購買者である)民衆は責めない。しかし日本が民主政の国家ならば、本当に責められるべきは民衆であろう。うすうすそれをわかりながら少数の者に責任を押し付け非難し、そうすることでだんだん民衆は感覚を麻痺させ、実質的な主権者ではなくなっていく。
 私は今の日本の状況を見て、このままではやばくなっていきそうだなと思っている。しかしそれを止めるために何をすべきかよくわからないし、よく考えたこともないし、正直、半分諦めているところがある。要するに怠惰なのだと思う。問題に向き合うのは辛いし怖い。今現在楽しく過ごせていればまあいいかと思ってしまっている。そしてそのような自分を自覚して、プライドを失っていっている。自分がやるべきだと思っていることから逃げていると、どうも元気が出ない。
 そのように考えていくと、今日本に必要とされているリーダーは、民衆を叱り付けられる人かなあとふと思った。「人のせいにしてないで自分で動け」と。
 カエサルがドゥラキム攻防戦でポンペイウスに敗れたとき、彼は兵士達に向けこう言っていた。
 「今日の不運の責任は、他のあらゆることに帰すことはできても、わたしに帰すことだけはできない。/眼前に迫っていた勝利を逃した要因は、諸君の混乱、誤認、偶発事への対処の誤りにある」と。
 カエサルはいつになく自分の非を認めなかった。それは、敗北した軍を再建するためには、兵士個々が自分の持つ責任の重さに目覚めることこそ重要だったからだと思う。

 講義を通して様々なリーダーについて話し合ってきた。
 リーダーの条件は、挙げていくとキリがない。決断力、行動力、視野の広さ、説得力、人心掌握、結果を出すこと、人を活かすこと、時代をみる力、ビジョン、情熱、等々。
 ここまで挙げ連ねると、誰もが「自分には無理だ」と尻込みしそうである。だがこれらの条件を完璧に満たすのは不可能に近いし、必ずしも完璧に満たす必要もないと思う。
 リーダーは、いかに拙くとも、自分が出来る限りのことをやっていくしかない。そしてリーダー以外の人は、リーダーが理想像と異なるからといって、むやみに批判するべきではない。自分が代わりにリーダーになって、より上手に問題が解決できるという確信がない限り、非難するのはお門違いであろう。(といっても、いつの時代にも民衆の「愚痴」は付き物だったから、仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。愚痴を言うだけの人々を主権者にしていて良いのかという問題はあるが。)

 このゼミに参加して、普段考えない色々なことを考えられた。気楽なゼミだったので、あまり構えずに発言できたのも良かったと思う。もう少し真面目にやっていれば、もっと得られるものもあったかもしれないという思いもあるが。
何より「ローマ人の物語」に出会えたことが、最大の収穫だと思っている。今後も続きを読み続けるつもりである。
一学期間大変お世話になりました。

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